木村圭吾芸術の評論ページです。
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文・篠原 弘
―悠久の花舞台について―
木村圭吾の最新作に「悠久の花舞台」がある。15号サイズの比較的小ぶりの作品だが、そのサイズとは思えないような巨大な目論見と壮大な意図を秘めた記念碑である。
その一端については『月刊美術』の最新号、7月20日発売の8月号に書いているので、ここでは繰り返さないが、書き切れなかったことについて、何点か触れておく。
まず、新しい描法と、新しいテーマ性を感じさせる重要な作品であることを強調したい。
色調は、紫がかった青い色が高貴であるとともに、これまでよりも、抑えた印象を与える。繊細可憐に描くよりも、のびやかな刷毛の仕事に特徴がある。ザックリとした山肌の荒々しい表現と大胆な刷毛の空間との対照が、しっとりとした中に抑揚をつけた緊迫の静寂世界を作り上げる。
それを一言でいえば、能の世阿弥を連想させるような新境地であるといえよう。
能舞台は足拍子の響きをよくするために要所に甕(かめ)をいけて反響版とするが、圭吾の作品も、静謐だが、息を潜めるかのような漲った張りを感じさせる空間の充実を見据えている。
世阿弥のことは、雑誌の文章の結句として多少書いているので繰り返さないが、より突っ込んでいえば、日本画の「幽玄美」とは、そもそも世阿弥の芸術論の転用である。
「幽玄」とはその字句の通り、かすかで暗く、幽明境に遊ぶ境地のことである。
「玄関」という言葉は、本来「玄」の世界への入り口、目に見えない関所のようなものだ。
仏教では聖なる「玄」の空間が「床の間」で、そこには仏様がおられる。この特別な床の間空間は、はるか彼方、銀河のへの入り口のことでもあろう。
「悠久の花舞台」は、その名のように銀河の舞台であるから、世阿弥の能楽の舞台と関連付けてもさして違和感はない。下界から宇宙までを見渡すようなこの作品は『風姿花伝』の言葉がよくにあう。
「その源を尋ねるに、あるひは仏所在より起こり、あるひは神代より伝わるといえども、時移り、代隔たりぬれば、その風を学ぶ力及難し」。
それは仏教と関係し、日本の神話世界と関係がある太古以来の代表的な美意識の象徴化である。だが、この幽玄美を感得する力は時代とともに衰弱してきているのが現状だ。対象となる「風月の景」は、「神事」である。「古きを学び、新しきを賞する中にも、全く、風流を邪にすることなかれ。ただ、言葉賤しからずして、姿幽玄ならんを、達人と申すべきか。」
日本が世界に誇る世阿弥の〈芸術論〉、その「幽玄」の文言の要約である。
ちなみに、われわれがよく使う「初心忘するべからず」は、本来の意味である。初学者のころの下手糞な表現の恥ずかしさを忘れずに、精進せよ、というのが本意だ。
いずれにしても達人・木村圭吾にとって、これからが更なる集大成へ向かって進んでいく正念場である。それは同時代の画家・芸術家よりも、主に古画との闘争である。圭吾の芸術運動は、今後ますます、世界の芸術家、古典名画との、新たな普遍化をめぐる壮絶な戦いに突入していくはずである。
私が、世阿弥を問い、芭蕉を問い、西行を語り、賢治を引き合いに出す、ゆえんである。